坂本の梶井門跡は1232年(貞永元年)の火災をきっかけに今の京都市内に移転した。洛中や東山の各地を転々とした後、1331年(元弘元年)に洛北船岡山の東麓の寺地に落ち着いた。
この地は淳和天皇の離宮雲林院があったところと推定され、現在の京都市北区紫野、大徳寺の南方に当たる。船岡山東麓の梶井門跡は応仁の乱(1467年−1477年)で焼失し、以後、大原の政所が本坊となった。
1698年(元禄11年)、将軍徳川綱吉は当時の門跡・慈胤法親王に対し、御車道広小路に寺地を与え、以後近世を通じて梶井門跡はこの地にあった。寺地は現在の京都市上京区梶井町で、跡地には京都府立医科大学と附属病院が建っている。
明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗(げんぞく、仏門を離れる)して新たに梨本宮家を起こし、寺町広小路にあった仏像、仏具類は大原の政所に送られた。1871年(明治4年)、大原の政所を本坊と定め、「三千院」と改称した。「三千院」は梶井門跡の仏堂の名称「一念三千院」から取ったものである。ちなみに「一念三千」とは天台大師智(ちぎ)の『摩訶止観』にある教義である。